に行ってきました!
2024年5月上旬にひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館に行きました。
旅行の参考になりそうな感想とポイントをまとめてみました。
写真の解説
写真は、5月に撮った写真です。
写真の右手にひめゆりの塔があります。奥にあるのは、ユリの花のレリーフと刻銘版の取り付けられた慰霊碑(納骨堂)、ひめゆりの塔と慰霊碑の間のガマ(鍾乳洞)が伊原第三外科壕です。“伊原”は場所の地名です。
すぐ左手にひめゆり平和祈念資料館の入口があります。
※本ページは、プロモーションが含まれています。
ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館について
ひめゆりの塔と資料館は、沖縄戦の激戦地である南部の糸満市にあります。
沖縄戦についての概要は、平和祈念公園の投稿にて記載していますのでご参考ください。
日本軍は兵力不足を補うため、10代の生徒まで戦場に動員。「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」からも、13〜19歳の生徒と教師の240名が看護要員として動員され、そのうち136名が亡くなりました。
それぞれの校誌名「白百合」と「乙姫」を組み合わせた「ひめゆり」という愛称から、戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるようになった従軍していた生徒・教師たちですが、米軍の侵攻により1945年5月末には沖縄本島の南部へ避難、6月18日の解散命令後に多くが亡くなっています。伊原第三外科壕では、解散命令後、壕に集合したところに黄燐手榴弾を投げ込まれ、多くの犠牲者が出ています。
学徒隊として動員されなかったひめゆりの生徒と教員91名も沖縄戦によって亡くなりました。
ひめゆりの塔:沖縄に動員されたひめゆり学徒の最期の地の一つで、最も多く犠牲者のあった陸軍病院 伊原第三外科壕跡に建立されたひめゆりの塔と慰霊碑です。
慰霊碑には、学徒隊として動員され命を失った136名と動員されず沖縄戦で亡くなった91名の227名が刻銘されています。
ひめゆり平和祈念資料館:1989年、ひめゆり同窓会によって設立。ひめゆり学徒の⽣存者が展示の説明、体験などを映像で語っています。当時の写真や壕の実物大模型などもあります。
ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館の感想
実際に体験してみないと分からないことはたくさんあります。ひめゆりの学徒隊たちも当時身近であった戦争を自身で体験して、戦争の恐ろしさや命・平和の尊さを知りました。そのことをここで私たちに伝えてくれています。
同じ悲劇を繰り返さないように、多くの人が歴史や過去に学んで、より良い幸せな未来を築いていけたらと思います。
心地よい旅のポイント
※ 情報は変わる可能性もあるため、各公式HPにてご確認ください。
- 慰霊碑(納骨堂)と混同しがちですが、ひめゆりの塔は小さめです。
- 伊原第三外科壕ですが、チブラーアブという別名もあるようです。
- 第三外科壕は深さ14mもあり、当時はハシゴで昇り降りしていたとのこと。
- ひめゆり平和祈念資料館の玄関は、沖縄戦で全焼し廃校となったひめゆり学徒隊の母校の正門を模して造られています。
進む途中できれいな中庭を時折見ながら見学できます。
資料館は、撮影禁止となっています。
- 敷地内には、複数の慰霊碑も建立されています。
- 門前にお花が販売されています。参拝の際に献花できます。
まとめ
「ひめゆりの塔」は、小説や映画にもなっているので有名ですよね。
実際にひめゆりの塔や資料館に出向いて平和への祈りを捧げてみませんか?
Have a nice trip! 良い旅を!!